領主

領主

文治5年(1189)武藤氏平(うじひら)が地頭となり武藤氏と庄内の関わりが生まれます。5代長盛から出羽に入り大宝寺氏を名乗ります。鎌倉時代の庄内は大泉庄、その中心が大宝寺(現在の鶴岡市)と称していました。

寛正3年(1462)11代大宝寺淳氏(きようじ)は出羽守に任ぜられ、寛正5年(1464)に上洛し将軍足利義政に謁見します。同年4月に京都糺河原(加茂川と高野川の合流地点)で鞍馬寺再興のための勧進申楽が足利義政主催で催され、音阿弥・観世正盛父子が能を演じています。淳氏がこれを鑑賞したかは不明ながら、当時盛んだった猿楽とこの時接したと考えるのは無理ではないでしょう。このころに淳氏の子政氏が羽黒山別当となり、羽黒山を手中に治め武藤氏は勢力を増し、庄内は安定期に向かいます。

1500年代後半に、庄内の土豪らは上杉方と最上方に分かれ戦乱が続きます。武藤氏は正平16年(1361)足利幕府が大泉荘を上杉憲顕に給したことで上杉氏と武藤氏の縁が生まれ上杉氏の力を得て戦っていたようですが、19代義興は天正15年(1587)最上義光軍に攻められ自害、庄内は最上氏が支配、その後本庄氏(現在の村上市)からの養子であった20代義勝が庄内を取り戻します。天正18年(1590)豊臣秀吉の「奥州仕置」により義勝は大和に流罪となり庄内は上杉氏が支配。その後義勝は本庄氏の当主となり武藤氏は消えていきました。関ヶ原戦を経て最上義光が庄内を支配しますが、元和8年(1622)お家騒動で改易され、譜代大名の酒井忠勝が庄内に入ってきます。

六目結紋春日神社の社紋は武藤氏の家紋「六つ目結の紋」で、別当寺寺尾山法光院も同じ紋です。能や祭に関わる様々なものにこの紋が用いられ丁重に扱ってきました。さらに、武藤氏は神社と能太夫に社領を与えていたようで、武藤氏が神社と能を手篤く庇護した証でもあると思われます。また、黒川には上杉氏の家来の末裔も現存しています。関ヶ原戦後、最上義光は各城を整備し大宝寺城を鶴ヶ丘城と改め、寺社をも手厚く保護し、黒川春日神社は社領を戴いていました。この頃、黒川では社殿が建立され社殿内に舞台が設けられたようです。黒川は領主が変わっても祭と能を一途に守り継いできたことが伺われます。ただし、武藤氏と黒川能の起源の関わりについては、14世紀から16世紀の大宝寺武藤氏と黒川の歴史的検証が課題となっています。

IMG_3107初代藩主酒井忠勝は鶴岡城や鶴岡の町の整備・新田開発に力を入れ、1600年代後期には庄内を安定させています。酒井藩は黒川に最上氏と同様の社領を安堵しています。徳川家によって能が式楽とされたことは黒川能にとって追い風になったと思われます。4代藩主酒井忠真のお国入りに際し、元禄3年(1690)に黒川能が初めて上覧されます。当時の黒川は生活に困窮し能についても衰退状態にありました。上覧能に際し酒井藩は諸道具や衣類の調達に支援し、上覧能実現は黒川能の評判を高めるきっかけにもなりました。以降上覧能は10回ほど続きますが、酒井藩の黒川能への庇護は黒川全体を豊かにしてくれたのです。明治になって荘内神社で黒川能を奉納するようになったのは、酒井藩への御恩に感謝するためものでした。

王祇会館館長 上野由部 記

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