能の諸相

能の諸相

元禄2年(1689)酒井藩の上覧能の問い合わせに対する黒川の返答は、役者は60人、対応できる能は10番、狂言を演じる者はいないというものでした。このころ「王祇祭」も2日に短縮した時期で、生活は苦しく能役者も弱体化していたようです。藩は仕度金を用立て上覧実現に支援しています。一ヶ月ほど稽古を積み、下見にきた酒井藩のお抱え能役者藤野清三郎から「観世にも劣りなし」とお墨付きを戴きます。元禄3年(1690)1月25日4代藩主酒井忠真の御前で、式・三番叟と能7番を演じました。ただし、狂言は鶴岡の町人が勤めています。上覧後、酒井藩から米百俵や能の諸道具等を賜ります。

上覧能は、藩主が変わって初めてのお国入りの際、特別なことがない限り催され、元禄3年(1690)を初めとして元治2年(1856)まで10回ほど行われています。そのたびに装束や諸道具など多くの金品を賜わり、黒川能は活力を取り戻し、狂言もめざましい復活を見せます。享保18年(1733)の上覧能の翌年には、大庄屋屋敷に拝領した品々を保管する宝蔵を建てました。初代藩主酒井忠勝が進めた新田開発の効果もあり、黒川は経済的・文化的に豊かになっていきます。

現在県指定の装束21展のほとんどが酒井藩から拝領したものです。国指定の装束「燭光狩衣」「光狩衣」「辻が花小袖」など室町期のものあり、IMG_4702-p現在上座・下座・神社で所蔵している総数は500展以上になります。も酒井藩から拝領したものや、能面以前の面など室町期の面もあり、狂言面を含めて現在所蔵している総数は300展以上です。謡本も酒井藩から戴いた版木本や、役者達の手書き本が数多く残っています。番組は現在500番残っていますが、上覧能とともに増えていったことがわかります。文政2年(1819)で演能できる番組数は60番足らず、明治32年(1899)には上座と下座で番組分配を行い、上座121番・下座118番が記されています。上座と下座は同じ番組を演じることはなく、江戸末期から明治時代に相当数の番組を増やしています。は東北なまりで緩やかなテンポで弱吟の謡に特徴があります。舞や着付には古来の手法が散在しています。狂言は現在40番ほどで上座・下座が同じ番組を演じています。

黒川能は上覧能と時代の風潮に乗り、『開帳能・サシ囃子・座囃子』という形式で、演能興行が盛んになっていきます。『開帳能』は宝物の御尊面4面や「光狩衣」「蜀紅狩衣」などを開帳しての演能、『サシ囃子』は謡の「サシ」の部分からの演能、『座囃子』は装束を着けないで演じる現在の舞囃子です。

『開帳能』は 神社の修復や能の装束・諸道具の修繕などを理由に酒井藩の許可を得て、宝永元年(1704)から天保9年(1838)まで8回行われています。開催地は鶴岡ががほとんどで酒田でも行われていました。1800年代には『サシ囃子・座囃子』興行が非常に多くなります。『サシ囃子』興行は幕府の許可を得て行っていました。『座囃子』は藩内であれば許可も不要で、場所も仕度も簡単なため積極的に応じたようです。また、謡や囃子の指南も他所に出向き頻繁に行っていました。
興行や指南による功罪として 、能の活性化とともに、役者の勝手な行動も生まれ、神事能としての性格や規律を乱すことにもなりました。文化5年(1808)郡奉行村井庄右衛門の黒川への書状は「他村の者から謡や囃子を習うものがいる。古来から伝わる黒川の流儀が変わってしまう」と危惧するものでした。また、神社や氏子の許可も得ず、『座囃子』を行ったり、勝手に指南に出向く者も出ていたようで、神事能としての厳格さと秩序を守るために様々な取り決めがなされていきました。

他所で囃子や謡の指南や『座囃子』を行うときは、装束は持ち出さないことを寛政3年(1792)に再確認しています。決まり事を破る、勝手な指南・演能・他所の者から謡や囃子を習うなどには、座や氏子から除外したり藩が決めた村役さえ辞めさせたのです。

初めての上覧能の後、春日神社で上覧と同じ能を舞い奉告祭を行い、以降他所で演能したときは奉告祭をすることを決め、神事能の意識を強めていきます。現在も伊勢遷宮で能を奉納した際など奉告祭を行っています。開帳能を行うとき演能前に「神拝式」を行うことにしています。これは現在の「舞台祭」で、他所で演能するときは、舞台に春日の神をお迎えし舞台を神聖にする儀式です。地謡い方と囃子方は舞台に居着くと、常に春日の神に深々と一礼し、能がすべて終わると地謡方は「養老」の一節「なお行く末も久しけれ」を謡い言祝ぎをし、囃子方とともに春日の神に深々と一礼して下がります。これらは黒川能が神事能であることを明確にする所作です。また、他所で片座が演能するときは、もう一方の座の役者が立合として同行します。これも神事能として不都合な振る舞を行わないための仕組みです。

DSC00055_外地演能明治以降、遠距離の外地公演が実現していきます。これは有識者や様々の方々のおかげであります。その主なものは、明治43年靖国神社演能、 昭和11年東京観世能楽堂、昭和26年日比谷公会堂、昭和42年水道橋能楽堂、昭和48年京都金剛能楽堂、昭和50・58・60年国立劇場。平成3年アメリカ公演、平成20年フランス公演。大正14年・昭和14年・昭和61年・平成14年皇室御前能。昭和51年国重要無形民俗文化財指定。貴重な経験を今現在もさせて戴いていると同時に、その評価に答えるべく努力しています。

 

 

 

 

黒川能の危機は、領主の入り乱れる戦国期、明治維新、第二次世界大戦、神武景気・いざなぎ景気による出稼ぎブーム期、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックによる不況と少子高齢化にあります。戦国期の乱れは酒井藩に救われています。明治維新で酒井藩の庇護はなくなるが、黒川の役者達は他所での演能や指南などを精力的に行い、黒川能はかえって活動的になります。昭和の大戦中でも王祇祭は一度も休みませんでした。
戦後民主主義のもとに資本主義と自由主義の拡大は地方の団結力を弱めていきます。出稼ぎブームは黒川能にとって一大危機でした。以降、継承者問題と祭・能・信仰への価値観の低迷。今まさに伝統を維持・継承することの意義が問われています。江戸時代の黒川能は酒井藩の大いなる庇護によって農民芸の域を超えて発展してきました。黒川に関わった領主に変わる力を、地域で創造し未来に繋げていくことを考えています。

王祇会館館長 上野由部 記

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