おこり

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OLYMPUS DIGITAL CAMERA 黒川能は、鎮守春日神社の氏子(農民)によって500有余年継承してきました。

江戸後期、田安様(田安斉匡)より黒川能の由来を求められ、寺社奉行に提出した文政2年(1819)の書状があります。この書状には、縁起は紛失したとしながら、口伝として第56代清和天皇が黒川に訪れた際(800年代後半)、黒川の人々に伝えられたことが記されています。さらに口伝として、第100代後小松天皇の第三王子小川の宮が諸国行脚の途中黒川に入り(1400年前後)、従者が伝えたと云われています。江戸後期に庄内藩士の池田玄(げん)斎(さい)や阿倍親任(ちかとう)等も黒川能の由来について記述していますが、黒川能の起源は江戸後期すでに不明だったようです。

明治以降、黒川能の諸相、文書・装束・面・領主との関わり・羽黒山修験道との関係等から、諸有識者が考察しています。その主なものが以下の通りです。
○横井春野氏…『郷土研究』第二巻第9号「黒川能起原考」大正3年
○本田安次氏…『能及狂言考』昭和18年
○平凡社:横道萬里雄氏監修『黒川能』昭和42年
○真壁 仁氏…『黒川能=農民の生活と芸術』昭和46年
○戸川安章氏…『黒川能の歴史と風土』昭和49年
○山口庄司氏…『能音楽の研究・地方と中央』平成10年
○桜井昭男氏…『黒川能と興行』平成15年
これらから、黒川能は寛正(かんしょう)3(1462)年に出羽守となった武藤淳氏(きようじ)以降の武藤氏の関与が有力とみられ、15世紀後期から16世紀前期には定着していたようです。

黒川能の風体が観阿弥・世阿弥時代に近いと云われるのは、民俗芸能として祭事の中の神事能として継承してきたことからと思われ、現在の五流のどこにも属さず独自の能を展開してきています。 また、「所仏則の翁」・能以前の面の数々・王祇祭で稚児が舞う「大地踏」の詞章などから、黒川には能を受け入れる素地として、すでに延年系の芸能が行われていたとも考えられるようです。

春日神社の氏子は上座(かみざ)と下座(しもざ)のふたつの座に分かれ、それぞれが能座でもあります。寛永元年(1624)「新山明神日記」に上能太夫・下能太夫の明記があり、上・下の座と能座がすでに組織化されていたようです。組織を率いたのは、春日神社の宮司・別当寺寺尾山法光院住職・上下能太夫で、この4人を一山衆と呼んでいました。江戸後期の黒川村の戸数は200戸余りでほとんどが氏子でした。平成26年現在、黒川地区の戸数300戸余り、うち氏子が230戸余りで、内訳が上座90戸・下座120戸・座に属さない氏子が20戸ほどです。役者は男子のみで舞方・狂言方・囃子方にわかれているが、幼少年期は大概謡と舞を習っています。現在は上座・下座それぞれ70名程度の役者で活動しています。

王祇会館館長 上野由部 記

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